今風に言えば「パイオニア」とも言うべき、自毛植毛を語る際に必ずといって良いほど名前が出てくる人物が居ます。それが奥田庄二医師です。
自毛植毛の歴史にその名あり!
自毛植毛が行なわれ始めた1960年代~1990年代初頭までは、アメリカのノーマン・オレントライヒ医師が確立した「パンチ・グラフト法」が主流となっていました。
このパンチ・グラフト法では、後頭部などから採取したドナー(移植の元となる部位、グラフトとも)を、採取し、約10本の毛髪を含む直径3~4mmサイズのグラフト(株)に分け、植えつけていきます。
現在では、他に優れた手法が確立されていますので、ほとんど行なわれない手法となっているのですが、何を隠そう、この手法を考案したのが日本人である、奥田庄二医師だったのです。
自身の毛髪を移植するという概念
皮膚科の医師だった奥田庄二医師は、1939年に「パンチ・グラフト植毛」の手法を発表しました。この手法は、元々は火傷の治療において毛髪を移植し、失ってしまった髪の毛を元に戻すことや、女性の陰部の無毛症などの治療を目的として発案されました。
「自身の毛髪を、頭皮を含めて他の箇所へ移植する」という概念は、当事としては常識を覆すような発案であり、その後の自毛植毛の技術進歩に大きく貢献しました。
しかし、この概念と手法が発表された後、奥田医師は第二次大戦中に亡くなってしまいます。その事により、この理論はその後歴史の中に埋もれてしまいます。
その後、冒頭にも紹介したノーマン・オレントライヒ医師がパンチ・グラフト法を確立。そこで再び、奥田医師が発案した手法にスポットが当たることになります。
このように、皮膚科の医師だった奥田庄二医師が、今日までの植毛に大きな発展をもたらしたのです。まさにパイオニアといっても過言は無いでしょう。